(2022・5)
JR九州ウォーキングの今年の春編も、そろそろ残りわずかになってきました。
今回は、JR九州筑豊篠栗鉄道事業部と、平成筑豊鉄道との共催となる、平成筑豊鉄道糸田線糸田駅スタート・後藤寺線船尾駅ゴールのウォーキングに参加した際の様子です。

伊田線・田川線・糸田線の三線が、JR九州から平成筑豊鉄道へ移管されたのが、1989(平成元)年10月1日のことでした。第三セクターとはなりましたが、引き続きJR九州との関係は深く、マヤ34-2009を借り入れての軌道検測は現在でも行われていますし、何といっても4ヶ所の駅(直方、田川伊田、田川後藤寺、行橋)で接点を持っていますからね。
かつては、JRから借り入れた車両(キハ28・58形、キハ66・67形)を使った臨時列車も運転されたりしてました。

最近は、ツアー形式でレストラン営業を行う「ことこと列車」が話題を集めるなど、さまざまな策を打ちつつあるへいちく。これまでもJR九州ウォーキングの共催という形で送客支援を受けることはありましたが、今回は糸田駅スタートという新しいコースの開催ということで、どんなふうになるのかなと・・・。
今回はウォーキング参加と、その前後の乗り鉄も含めての記録になります。今回も小6娘と2人でのお出かけでした。
まずは、いつものように地元・箱崎駅を出発します。

6時25分発、普通128M列車門司港行き。415系Fo-110編成+Fo-1512編成の計8両で運転されていました。
今回も、朝飯は事前に買い込んだこちらで。
ヤマザキのランチパック、ソースコロッケとタルタルたまご。これはけっこう、お腹にたまります。(^^;
鹿児島線の沿線も、そろそろ麦の収穫が終わり、稲作が始まっているところが増えてきました。
写真は赤間付近ですが、まだ収穫前の麦が植わっているところと、すでに水が張られて稲が植えられているところが混在していました。
赤間で128Mを降り、後続の快速に乗り継ぎます。
7時7分発、快速3380M列車小倉行き、813系RM3104編成+RM3113編成の計6両でやってきました。
いずれも一部座席撤去を施されて、1100番台に+2000番とされた編成ですね。

左下写真はクハ813-3113の車内ですが、こんな感じに。
やはり、椅子が少ないのはつらい・・・ワタシたちも結局、折尾まで立ったままでした。
3380Mは、7時21分に折尾駅5番ホームに到着。
そそくさと、7番ホームへ移動。7時30分発の普通6525H列車直方行きに乗り継ぎます。車両は817系VG2004編成2連。
向かい側の6番ホームには、7時31分発の普通6630M若松行きとして、BEC819系ZG2編成2連が停まっていました。
折尾を出てしばし、トンネルを抜けると、まもなく旧線との合流地点となります。
折尾駅での鹿児島~筑豊短絡線の高架駅移行・鷹見口廃止から2ヶ月が経過しました。旧線の方は徐々に線路が取り払われていっているようですね。
こちらは新入駅の様子です。
ここのホームからはかつて、このあたりでは一大車両基地であった直方気動車区を見渡すことができていました。現在は跡地が再開発されて、一部は店舗になっています。
7時52分、6525Hは終点の直方駅2番ホームに到着しました。
向かい側の1番ホームには7時54分発の普通2635H列車博多行きの813系RG1003編成3連が待っていました。

ということで、ここでJRの改札を出てきました。
ここからは、平成筑豊鉄道の列車に乗り継ぎます。

こちらがへいちくの乗り場の入口となります。
ふだんへいちくの乗り場に駅係員はいませんが、この日はウォーキングの関係で、案内係の社員さんが待機していました。

券売機できっぷを調達し、待つことにします。
こちら、ホームから見える場所に、「平成ちくほう鉄道 伊田駅起点 0k100」と書かれた標柱が立っていました。
直方駅構内の伊田線起点0km地点は、現在のJR駅構内にあると思われるんですが、やはりへいちくとしては、100mずれてでも、自らの駅構内に何かしらの印が必要だったんでしょうね・・・。
さて、ワタシたちが乗車する、直方8時20分発、普通2215D列車行橋行きとなる車両が、やってきました。
・・・おっと、この車両は、先日のこのときに乗車した400形403号。「SUPER HAPPY TRAIN PROJECT」の一環で、派手な塗装を纏った車両ですね。まさかまた当たるとは・・・。(^^;

車内はまぁ、普通ではあるんですけどね。
後からJRの列車でやってきたウォーキング組も乗り込んできまして、車内は座席がすべて埋まって足りなくなるくらいの混み具合になってきました。
2215Dは定刻に直方を出ました。

こちらは途中の市場駅。
写真でも黄色くなった麦の穂が写っていますが、こちらの沿線では、まだ麦の収穫が終わっていないところが多かったですね。
2215Dは8時41分に金田に着きました。
ここで、糸田線の列車に乗り継ぐため、ホームを移動・・・。

構内にある車両基地には、401号+402号「ことこと列車」編成や、イベント対応車となっている500形501号が休んでいました。
なお、動態保存車となっている、ひたちなか海浜鉄道からやってきたキハ2004ですが、この日は駅の人見寄りのところに置かれているのが、列車内から見えました。
で、こちら4番ホームから8時50分発、普通309D列車田川後藤寺行きに乗り継ぐことにします。
車両は400形407号+406号の2両編成。407号は「マクセル号」として広告塗装を施されています。

ウォーキング参加者輸送のためでしょうね、わざわざ2両編成に増結してありました。ただ、2両の間に貫通幌は渡されておらず、後ろの車両にも運転士が乗務して運賃収受対応にあたっていました。

ワタシ自身、糸田線に乗るのって、多分もう20年以上ぶりなはずなんですよね・・・。
さて、定刻に金田を発車した列車。しばらくは、伊田線の線路と並走していきます。

写真の場所で、ようやく伊田線と糸田線が分かれていくわけですが・・・ここまで3本の線路が並走してるって、いかに往時のこのあたりがすごかったかを偲ばせますね。
8時57分、309Dは糸田駅に到着しました。

今回のウォーキングはここがスタート。
改札を出て、駅横に設けられたスタート受付でマップを受け取りました。
さ、歩きましょうかね。

・・・今回、いつも使っているYAMAPアプリの起動を忘れてしまいました。
あとから気が付いたんですが、今回はもう使わずにいくことにしました。
糸田駅を出て、コースを歩き始めます。

こちらは、最初の立ち寄り地になっていた場所。
旧中央公民館跡地を利用して作られた「憩いのひろば」に、糸田町出身のフォークシンガー・井上陽水氏の歌碑が建っています。
刻まれた歌詞は、1972年12月リリースの2ndアルバム「陽水Ⅱ センチメンタル」に収録された「夏まつり」のもの。懐かしい夏祭りの情景が目に浮かぶ言葉たちが、随所に散りばめられた歌詞です。この糸田町で過ごした少年期の記憶、なんでしょうかね・・・。
続いて訪れたのが、こちらの糸田城址。
鎌倉時代末期にこのあたりを治めていた豊前国守護・糸田貞義が居城としていたところ。貞義はもともと北条姓(鎌倉幕府の執権・北条氏の一門)でしたが、この糸田を居城としたことで糸田姓を名乗ったそう。
最後は1334年、鎌倉幕府の滅亡後に貞義らが北条勢の残党とともに反乱を起こす(規矩・糸田の乱)も反北条勢に鎮圧され、それに前後してこの糸田城も落城したとのことです。
次に訪ねたのが、金村神社。ここは、大和朝廷の権力者で、このあたりの渇水を救った人物と伝えられる大伴金村を偲んで建てられた神社とのこと。
本殿の天井に「金村神社天井絵」と呼ばれる15枚の絵がはめ込まれています。動物や、花菖蒲・水仙などの植物など、さまざまな絵が描かれています。
そこからコースを進むと、途中にこんなところが。
産直市場「糸田ふれあい市」です。
立ち寄ってみたんですが、どの野菜も産直だけあって安いですね! ニンジンとキュウリを買って持ち帰ることにしました。最近、スーパーの野菜は高くてなかなか手が出ないことが多いもんで。(^^;
そして、こちら。
「泌(たぎり)」という泉ですね。先ほど、金村神社の項で触れた大伴金村がここを掘り当て、渇水を救ったとの言い伝えが残っています。
干ばつ時に枯れることを知らず、豊作が続くことから「いとよき田」「いと田」と呼ばれるようになり、「糸田」の地名の由来になったと言われています。

この先コースを進むと、江戸時代の享保大飢饉のときに、飢えで亡くなった人たちを供養するために建てられた、千人塚の碑があるところを通りました。その飢饉のときには、この糸田町域でも人口の半分が亡くなったというのを、以前このあたりを歩いたウォーキングのときに知ったんですがね。あのウォーキングは確か13年前の秋、田川後藤寺駅スタート・ゴールで、この糸田町のあたりを歩いたんでした。
さらに歩いて行くと、糸田の新しい名所となっている「道の駅いとだ」にたどり着きました。
実はまともに訪ねるのは初めてだったりしたわけですが・・・。(^^;

時間はまだ10時過ぎ、昼食には早すぎるんで、何かないかと探していると・・・。
・・・こちら。
やはりかつて炭鉱で賑わった土地柄、こんな「石炭ソフト」というのを出しているお店がありました。
道の駅のフードコートで営業している「バニーズ」というお店で、350円(税込)で出されていましたので、食べてみることに。
良く冷えたうえに、黒光りしていました。食べてみると、濃厚なチョコレートの香りが口の中に広がります。

以前、荒尾市の万田坑の近くで食べた「万田坑ソフト」は黒ごまで石炭を表現していました。黒い石炭を表現するのに、みなさんいろいろ工夫をしているんだなぁと。
道の駅を出て国道201号を渡ったところにあるのが、「池のおく園」。
もともと三井鉱山セメント田川工場があった場所に、日本庭園や美術館、フレンチレストラン、さらには多目的ホールなどが開設されています。

以前も確かウォーキングで立ち寄ったことがありましたが、今回は通過するだけにしました。
そこからは、いかにもな工場地帯の道を通って、丘を越えていく格好になります。
丘を越えたところには、麻生セメントの田川工場があります。
ゴールは、その先ですね・・・。
ということで、11時にはゴールの船尾駅に到着となりました。
2時間ちょっとでしたね、ここまで・・・。

ゴール手続きを済ませてホームを見上げると、ホームには人が鈴なり・・・。
そう、まもなく列車が来る時間なんですね。
ということで、ここからは11時7分発、後藤寺線の普通1547D列車田川後藤寺行きに乗車します。キハ140-2067の単行ワンマン運転です。
1両のみの列車は、あっという間にウォーキング参加者でいっぱいになりました。(^^;
船尾での乗車に時間がかかり、1547Dはやや遅れて田川後藤寺駅に到着しました。

11時過ぎてますので、そろそろお昼を探してもいい時間かなと、駅を出て少し街を歩くことに。
こちらはかつての後藤寺バスセンターの跡。まだ建物は残っていますが、立ち入りはできなくなっています。2016年9月に閉鎖されて、すでに5年半以上が経過してるんですけどね。
地方都市のバスターミナル華やかなりし頃を今に伝える建物だったんですがね・・・。
さらに、商店街へも行ってみましたが・・・。
圧倒的にシャッターが閉まっている店が多くて、とてもお昼を探すどころではない状況でした。
それくらい、中心商店街に人が来ていない、ということなんですね・・・みんな車で郊外へ行ってしまってるんでしょう。
やむなく、列車で移動することにしました。

直近の列車は、11時38分発、日田彦山線普通950D列車小倉行き、ということでしたので、きっぷを買って4番ホームへ向かいました。

ホームでは、キハ147-90+1043の2連が待っていました。
列車は適度に空いた状態で、順調に走っていきます。

田川伊田~上伊田間(上伊田駅手前の分岐ポイントまで)は、日田彦山線と、平成筑豊鉄道田川線が線路を共用しています。
分岐した先の右手に、田川線の上伊田駅があります。このときには向こう側の列車から、日田彦山線の線路を見てましたっけね。
こちらは、採銅所駅。
2週間前、このときにはウォーキングのゴールだった場所です。

この駅では、なぜかカメラを構えた撮り鉄さんたちが数名、こちらの列車を撮影している様子が見えました。
集団でいましたのでね・・・何かネタでもあったんでしょうかね?
右手から日豊本線が合流し、950Dは2分ほど遅れて12時23分に城野に到着しました。
ここからは特急も走る日豊本線を走りますので、揺れも少ない状態で快走していきます。

南小倉~西小倉間では小倉総合車両センターが見えてきますが、815系No-23編成がまもなく出場なのか、きれいな姿で佇んでいるのが見えていました。
西小倉を出て、紫川を渡ります。

この日は曇りのち晴れ、という天気予報でしたが、この時間になっても雲が空を覆っていました。
途中で遅れが戻ったようで、950Dは定刻の12時33分に、小倉駅2番ホームに到着しました。

ここからは、お昼を求めて改札を出て街を歩くことにします。
3階の改札を出たところでは、佐賀県の物産市が行われていました。
駅の南口を出て、少し歩いたところにある鳥町食堂街へやってきました。
ここにあるお店に、今回は入ってみようということなんですが・・・。
それが、こちらのお店。
小倉焼うどんの発祥のお店といわれる「だるま堂」です。
戦後すぐの1945(昭和20)年、焼きそばをつくりたくても生麺が手に入らず、やむなく乾麺のうどんで代用したところから始まった小倉の焼うどん。その焼うどんを生み出したのが、この「だるま堂」の初代店主でした。

その後、二代めの店主夫妻が亡くなったことで2019年にいったん閉店となったものの、小倉焼うどんのPR活動を続けてきた「小倉焼うどん研究所」が引き継ぐ形で、屋号が残ることになりました。
なので、現在の「だるま堂」のメニューには、初代店主由来の乾麺を使用した焼うどんと、「小倉焼うどん研究所」オリジナルの生麵を使った濃厚な味の焼うどんの、二種類の味がラインナップされています。
今回は、やはり発祥の味に敬意を表して、乾麺のだるま堂味の焼うどん、それも、目玉焼きが載った「天まど」(650円)をいただくことにしました。娘も同じものを食べたいということで、2つ注文。

若干酸味の効いたやさしいお味のソース、平打ちの乾麺を使用し、あっさりとした仕上がりの焼うどん。ソースをたっぷりかけた濃厚な味の焼うどんもおいしいですが、このベーシックな焼うどん、純粋においしい、と思えるお味でした。
さて、ここからはあっさりと帰宅の途に就くことにします。

小倉駅前に出てくると、ペデストリアンデッキに続くエスカレーターのたもとに、こちら。
明治・大正期に小説家として活躍した森鴎外が、1899(明治32)年から1902(同35)年まで軍医として小倉へ赴任した際、前半は鍛冶町に住み、後半に住んでいたのが、現在は南口駅前広場の一部となっている京町5丁目の一角だった、という内容が、石碑の横の案内板に書かれていました。
小倉駅が現在の場所に移転してきたのは1958(昭和33)年のことで、その際にどうやら、旧居跡は駅前広場になってしまったようですね。
小倉駅からは、こちらの列車へ。
6番ホームから13時44分発、区間快速(福間~博多間快速)3239M列車荒木行き、811系PM16編成+PM101編成の計8両、車両は門司港から回送で到着しました。
福間までは各駅停車ですので、のんびりとした道のり。

こちらは、スペースワールド駅手前、左手に見える「ジ・アウトレット北九州」の様子。駐車場は車いっぱいでしたし、バスもたくさん来ていますね。
こちらは、黒崎駅前にあるかつての黒崎井筒屋の跡。
ビルの運営会社であったメイト黒崎の破産に伴い、2020年8月に、この黒崎井筒屋を含め、同じビルにあったテナントはすべて閉店となりました。
その後の跡地利用はまだまだ決まらないままです。北九州の副都心といわれる黒崎ですが、駅前の一等地にあるこの場所の再生が決まらないというのも、なんだかですね・・・。
さて、ワタシたちは福間で、3239Mを降りました。
ここからは各駅に停まる普通列車に乗り換えるわけですが・・・。
乗り換える列車はこちら。

福間14時48分発、普通2155M列車久留米行き。車両は811計PM2108編成+817系VM3010編成の計7両でした。

PM2108編成は、ここでも書きましたが、5月9日に小倉総合車両センターを出場してきたばかり。リニューアルを施行されて、PM108→PM2108と編成番号が変わっています。
車内は、リニューアル落成直後ということで、まだ新車のようなにおいが漂っていました。
811系のリニューアルは、在籍27編成中、このPM2108編成で11編成めということになりました。まだ半数には達していませんが、今後徐々に進んでいくんでしょうね。
15時13分、2155Mは箱崎に到着しました。
ワタシたちはここで下車です。

この列車には途中から、多くの若者や家族連れが乗り込んで、博多方面に向かっていました。やはり目的は「ららぽーと福岡」なんだろうかと・・・。
ということで、平成筑豊鉄道糸田駅からのウォーキング参加と、そのあとまで含めた記録になりましたが、いかがだったでしょうか。へいちくさんも、車両を増結したり、係員さんを動員したりして、今回のウォーキングにかなり力を入れて取り組んでいる様子が伝わってきました。
何度も行ってるはずなのに、これまで知らなかった糸田町の名所・名跡を巡ることもできましたし、そのあとのお昼もおいしくいただけましたし。けっこう列車に乗ってる時間も長かったですが、クルマの運転もなくのんびりできる列車の旅は、やっぱりいいもんですね。

あとわずかになったJR九州ウォーキングの春編ですが、もう少し、歩いていろいろ楽しもうと思っています。
<おわり>