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Part6(2003・10〜11)
昼食を食べ終わって、駅構内に入ってきました。

改札前の1番ホームには、13時16分発、八代行きの1236D列車・・・通常なら1両ワンマン運転なんですが、この日はその1両・キハ140-2040の前にキハ28・58形が3両連結されていました。どうやら、この3両は団体貸切で、この先定期列車併結の形で八代へ向かうようです。
とくに、先頭のキハ28-2485は、ブルーの「シーサイドライナー」色。かつては長崎・大村線の快速に使われていた車両です。
団体列車併結の1236Dが発車した後、2番ホームにはこちらの車両が入線してきました。
車両はキハ31-14。ヘッドマークにはひらがなで「いさぶろう」の文字・・・。そうです、いまやすっかり肥薩線人吉〜吉松間の名物列車になった観光列車「いさぶろう」。ワタシが次に乗るのは、この列車です。

いまやすっかり人気列車になっている「いさぶろう」(下り)と、折り返しの「しんぺい」(上り)。その名前の由来はというと・・・。

1909年11月21日、難工事の末にこの人吉〜吉松間が開通し、門司(現在の門司港)から鹿児島までが鉄道で結ばれました。(当時、水俣・川内と海沿いを経由する現在の鹿児島本線のルートは全通していませんでした)
そのことを記念して、鉄道を所管していた当時の逓信大臣・山縣伊三郎と、鉄道院総裁・後藤新平がそれぞれ、この区間の一番長いトンネルである矢岳第1トンネル(2096m)の両端の入り口に、自筆の石額を掲げました。
トンネルの人吉寄りの入り口に山縣の筆による「天険若夷(てんけんじゃくい)」、吉松寄りの入り口に後藤の筆による「引重致遠(いんじゅうちえん)」の額が掲げられたことから、山縣の書いた額に向かって走る列車を「いさぶろう」、逆に後藤の書いた額のほうに向かって走る列車を「しんぺい」と名づけたのだとか。

ちなみに、2つの額の文字をつなげて読むと、天下の難所を平地のようにしたおかげで、重いものもどんどん遠くへ運ぶことができる、という意味になるのだそうで、この区間の全通が当時いかに喜ばれたかが分かろうというものです。
「いさぶろう」「しんぺい」の車内の最大の特徴は、転換クロスシートの間に畳を載せ、お座敷のようにしてしまっていること。
この「簡易お座敷」が、非常に乗客には好評なんですね。
こういう列車ですから、ついついこういうことも・・・。
駅のキヨスクで、ビールとつまみをしっかり買い込んできていました。(^^;)
「いさぶろう」は13時30分、人吉を発車。山登りに入りました。
もちろん、1両ワンマンの車内は満員御礼。

車内では車窓案内のテープ放送が流れ、お客さんたちもその案内に聞き入っています。

(プライバシー保護のため、写真を一部加工しています)
坂を登り、再び大畑へやってきました。

小さい子供を連れた家族連れが車か何かで来ていたようで、列車に乗るでもなくカメラを構えていました。

大畑駅のスイッチバック線の脇には、左下写真のように、この大畑駅付近の工事で犠牲になった13人の工事関係者をまつった慰霊碑があります。やはり、当時としては難工事だったんですよね。
「いさぶろう」は大畑を発車してスイッチバックを抜け、ループ線を左回りに登っていきます。
右手には、球磨盆地が見えています。こういう見所で、スピードを落とし、止まってしまう・・・観光列車ならではのサービスがうれしいですね。
列車は、サミット・矢岳に到着しました。
しばらく停車時間がありますので、ここでも外へ出てきました。

ここで、さきほどワタシが矢岳から乗った上り列車から降りていった団体さんが、この「いさぶろう」に乗り込んできたもんですから、もともと満席だった車内は通路まで人があふれる状態に・・・。(^^;)
ここから先の線路は、一転して下り坂、となります。
さきほども書いたこの肥薩線最長のトンネル・矢岳第1トンネルなど、大小7つのトンネルを抜けていきます。
トンネルのあいまに、このように「日本三大車窓」のひとつに数えられる雄大な景色が広がります。霧島連山のふもと、ちょうど都城から吉松へ延びる吉都線の沿線に当たるところです。

ちなみに、「日本三大車窓」のあと2つは、長野県の信越本線・姨捨付近からの善光寺平の眺め、そして、北海道の根室本線・狩勝峠の車窓ですね。
やがて、左手にこちらの駅が見えてきました。
真幸駅。この駅もスイッチバックの駅。いったん駅を行き過ぎてから、バックで入線していきます。
「真の幸せ」と書くこの駅の入場券(人吉駅で発売されているとか)は縁起物として人気があります。

到着したホームには、「幸福の鐘」があります。
かつて有人駅だった国鉄時代、鉄道員が仕事と旅客の安全を願って鳴らしていたものだそうです。もちろん、いまは一般のお客さんも鳴らすことができるわけですが、なんでも、ちょっと幸せの人は1回、もっと幸せを願う人は2回、いっぱい幸せの人はいっぱい鳴らす、というのが流儀だとか・・・。(^^;)
ここでも少し停車時間がありますので、外へ出てきました。
ちょうどホームの上にコスモスが咲いていました。このコスモスの花を見た瞬間に、この左写真のアングルを思いついて、迷わず撮ってみました。
車内からはたくさんのお客さんが、このようにホームに降りてきていました。
車内が少し暑かったこともあるんですが、外の空気が本当に心地よかったですね。
真幸を出て、あとは終点・吉松へ向かうだけですが・・・。

こちらは、途中の山神第2トンネルの入り口の手前。
進行方向左手に、「復員軍人殉難碑」という看板があります。この写真の左手奥のほうに、実際の石碑があるわけなんですが・・・。

日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏し、第二次世界大戦が終わってすぐの1945年8月22日。米軍の上陸に備え南九州に展開していた兵士たちが、大挙して北へ向かう列車に乗り込んでいました。
終戦後なお、米軍の海からの攻撃を恐れて、復員兵たちが山の中を走る肥薩線の列車に集中した、ともいわれています。
多くの復員兵を乗せた超満員の列車(当時のことですからSL牽引。車内に乗り切れず屋根の上にも人が乗っていたとか)がこの山神第2トンネルに入ったとき、勾配のきつさと人の重さで坂を登れなくなり、立ち往生してしまいます。
SLの煙がトンネル内に充満し、乗っていた復員兵たちはたまらず列車を飛び降り、トンネルの外へ向かって歩き始めたわけですが・・・そのとき、立ち往生した列車がバックを始めてしまい、トンネル内を歩いていた復員兵たちが次々に列車にひかれ、50人以上が犠牲になったということなんですね。

今日、こうして旅を楽しんでいるこの肥薩線に、さまざまなつらい歴史があったことも、やはり心に留めておかなければならないでしょうね。
15時ちょうど、「いさぶろう」は終点・吉松に到着しました。
このあと、この車両・キハ31-14は、「しんぺい」として人吉へ向けて折り返していきます。

この「いさぶろう」「しんぺい」については、来年度から新しい改造車が投入されることになる見通しで、キハ31形による運転は、おそらく今年度限りになるものと思われます。
乗り継ぎに若干時間がありましたので、吉松駅の改札を出てきました。

駅のすぐ近くには、SL・C55-52が保存されています。
1937年3月に製造されたこの機関車は、小郡、糸崎、鳥栖、大分、宮崎、若松の各機関区を経て、1972年3月、この吉松にあった機関区に配属となりました。
吉松機関区時代は主に吉都線と、肥薩線吉松以南を中心に活躍。1975年1月、鹿児島を最後に廃車となり、この吉松に運ばれて静態保存となりました。
以前は雨ざらしだったようですが、現在は屋根つきの場所に保存されています。
ここからですが、15時35分発、隼人行き4235D列車に乗ります。
車両はキハ28・58形の2両編成。他のホームから入換で2番ホームに入線してきました。
「いさぶろう」からこの列車に乗り継ぐ人もけっこういました。
列車は左手に霧島連山を見ながら(とはいっても、高いところは雲に隠れていましたが)、栗野へ向けて若干の上り勾配にかかります。

水俣まで延びていたかつてのJR山野線との分岐駅・栗野を過ぎると・・・。
・・・こちら、2日前に訪れた大隅横川の駅に着きます。

何度見ても、ここの木造駅舎はいいたたずまいですよね・・・。
4235Dは16時25分に隼人駅2番ホームに到着。
4分の接続で、向かい側3番ホームにやってきた6959M列車西鹿児島行きに乗り継ぎます。
817系Vk-2編成2連がやってきました。

途中で行き違いの停車をはさみながら、6959Mは17時13分に西鹿児島に到着です。

「豪遊券」最終日もすでに夕刻。いよいよ、今回の旅もクライマックスに向かおうとしています。
西鹿児島から、いよいよ最後の北上です。

6番ホームには、「つばめ13号」が到着していました。
この日の同列車は、787系「ニューつばめ」Bk-8編成7連に、「武蔵」ラッピングのBM103編成4連が増結されていました。
世間は土曜日、翌日から鹿児島では「おはら祭り」ということで、増客を見込んでのことだろうと思われますが。
そして、ワタシが乗る列車はこちら。
「つばめ24号」博多行き。787系「ニューつばめ」Bk-6編成7連が充当されていました。

1号車グリーン車に乗り込みます。
もちろん、内装も「ニューつばめ」仕様。木目調とブラウンを基調にした落ち着いた雰囲気です。
17時25分、暮れ行く空の下、「つばめ24号」は北上を開始しました。

左手に見える鹿児島総合車両所の留置線。写真では流れていますが、塗りたてピカピカの「ニューつばめ」車両の姿が見えています。
この車両は、この間入場して改造工事に入っていた787系Bk-5編成。この位置には1号車から4号車までの4両がつながれた状態で置かれていました。
同編成については、10月12日の「総合車両所まつり」の際に、7号車(クモハ786-5)が改造済みの状態で展示されていたという情報が入っていますので、この日の時点でおそらく編成の7両全車が改造を終えていたものと思われます。
さて、夕食にしましょう。
「幕の内弁当」ということで、ホームのワゴンで「とんこつ弁当」などとともに売られていたこちらのお弁当。確かに一般的な幕の内、という感じでしたが・・・。

で、この旅で、いったいいくつ駅弁食べたんだろう・・・。(笑)
列車は鹿児島県内を北上していきます。

旅の最終日も、いよいよこういう時間になってきたんですね・・・。

♪過去も未来も 別れも出会いも
 ひとつになって 静かに 時は 止まる・・・

(BGM オフコース「たそがれ」)

こういう眺めには、ほんと、この曲が似合います。
夕食が終わって、暮れ行く空を眺めながら、やはり一杯やりたくなりましてねぇ。(笑)
ということで、車内販売のワゴンから、発泡酒とミックスナッツを買い求めました。

外が暗くなった阿久根付近から先も、しばらくはカメラを構えて暮れ行く空を撮ってみようかとか思っていましたが、日が落ちた上にさらに曇ってきまして、写真を撮れるような明るさは確保できませんでした。

これがビュッフェがあるころだったら、食べるほうもいろいろ注文しながら、ビール→ワイン→日本酒→焼酎(爆)なんていうちゃんぽんな呑み方もやるんでしょうが、さすがにグリーン車のシートで一人で飲んでるような状態では、そこまではいきようがないですね。
いままで何度となくこの「つばめ」を利用しているワタシとしては、そのあたりがなんだか寂しいというか・・・。

気がつけば、列車は八代へ。
向かい側の0番ホームでは、きょう昼間に、人吉〜矢岳間で乗車したキハ31-16が、下り人吉行きとして発車を待っていました。

若干の遅れがあったため、複線区間となる八代からは、ガンガンスピードを上げて暗闇の中を突っ走っていきます。

3分ほど遅れて、列車は熊本へ。向かい側では、三角線の三角行きが接続を待っていました。

さらにこの「つばめ24号」は、上熊本にも停車します。
時間的にも、この列車にはそういう利便性が求められているんでしょうか。
そろそろ、デザートで締めといきましょうか。
秋の季節限定アイスである「栗アイス」(300円)を注文しました。

窓の外を見ていると、いつの間にやら雨粒がガラス窓をたたいていました。
左下写真は大牟田到着時のものですが、この時点ではかなり雨脚が強くなっていました。
天気予報では午後から南九州で天気が下り坂という予報ではあったんですが・・・。
暗闇、そして雨が降り続く中を、「つばめ24号」は最後のスパートをかけます。
多くの「つばめ」が通過する二日市にも、この列車は停車します。

もうあと少しです・・・。
「つばめ24号」は、5分ほど遅れて博多駅1番ホームに到着しました。
博多といえば、ワタシ自身がいつも通勤で通っているところではありますが、さすがにこの日ばかりは、事情が違いました。・・・なぜかって? それはいわずもがな、でしょう。
ここからは、いよいよ最後の行程へ・・・。

次に乗る列車は、「きらめき6号」門司港行き。
885系「白いかもめ」の編成が充当される列車です。
この日は、885系のトップナンバー・SM1編成が充当されていました。SM1編成といえば、2000年10月のJR大宮工場公開の際に、九州からはるばる関東まで運ばれて展示に供された編成ですね。
この「きらめき6号」には、仕事が遅くなったりしたときに乗ることもあるわけですが、そういうときでも、まずグリーン席に座ることはありません。
事実、この日も、グリーン席の利用者は私一人でした。
21時40分を若干まわってから、「きらめき6号」は博多駅を発車しました。
ワタシは、パソコンを立ち上げて写真の整理と、サイトの更新を・・・。
気がつけば、列車は黒崎を過ぎ、小倉に到着していました。
・・・そうです、もともと、今回は地元・黒崎ですんなり降りるつもりはありませんでした。
もちろん、目的があってのこと。

この日の「きらめき6号」は、若干の遅れをもって運転されていましたので、深夜にかかる時間のシビアな接続を確保するため、車掌さんは1号車の乗務員室で無線にかじりつき、運輸指令に接続の確保を懸命に要請していました。
小倉を出ると、次は門司に停まります。

門司駅では、新しい橋上駅舎の工事がいよいよ佳境に入ってきました。
暗い中でよく見えませんが、橋上部分もかなり鉄骨が組みあがりつつありました。
門司を出ると、「次は終点、門司港」の文字が表示されました。

いよいよです。
定刻より2分遅れの22時47分、「きらめき6号」は門司港に到着しました。

門司港駅の頭端式ホームに停まる885系。
この「白いかもめ」の885系は、長崎の頭端式ホームにはいつも出入りしていますが、実はこの門司港にも、毎日来ています。

九州の鉄道起点・0哩(マイル)標のたもとへ、いまワタシはたどり着きました。
改札を出てきました。
国指定重要文化財・門司港駅舎。今回の旅の大団円を、ワタシはここで迎えることにしていました。

この門司、門司港という場所は、ワタシにとっては故郷。原点に返る、という意味合いを、ワタシとしては込めたつもりです。
4度目の、そして最後の「九州グリーン豪遊券」の旅は、こうして幕をおろしました。

九州新幹線の部分開業を来年春に控えたこの時期。九州の鉄道は、今後さらに大きく変化を遂げていくことになります。
そのなかで、終焉を迎えた「豪遊券」の最後のユーザーの一人として、さまざまな九州の姿を目の当たりにできたことは、本当に収穫だったと思います。この旅行記のサブタイトルにもあるとおり、温泉や駅弁、秘境駅を満喫できた、ということも含めて。

「列車乗り」は、確かに列車に乗っている間に楽しみを見出すものではありますが、必ずしもそれだけではない。列車で訪ねた先で、いろいろな発見をし、おいしいものを食べ、温泉につかり・・・そういうことを含めて、旅先のその土地のことを少しでも感じ取り、自らの血や肉にしていく、ということも大事なんではないかと、思った次第です。
今回の旅は、そういう「列車乗り」の原点を、ワタシなりに改めて確認する旅でもありました。

まだまだ目の離せない九州の鉄道事情。みなさんもご自分の目で、ぜひ一度お確かめを・・・。
<おわり>