(2003・3)
「最後の旧型国電」として、小野田線の雀田〜長門本山間(通称:本山支線)で活躍を続けてきたクモハ42001が、ついに2003年3月15日のダイヤ改正を機に引退することになりました。
いままで、何度かこの車両には乗っているんですが、やはり最後にもう一度乗っておきたいと思いまして、3月8日、本州へ向かいました。
下関駅にやってきました。
この時点では晴れ間が出て日も差していましたが、何しろ風が冷たいもので・・・。この3月の時期としては非常に寒い日でした。

11時13分発、小郡行きの3542M列車は、瀬戸内カラー115系電車の2両編成・・・クモハ115+クモハ114(いずれも550番台)という組成で、とてつもなくパワフルな、しかし車内にトイレがついていない、という編成です。
車内はシートが取り替えられて、デフォルトのアコモより席数が減っています。しかも、近隣の競艇場などに向かう人たちがけっこう乗ってきて混雑しています。
ただ、長府、小月、埴生、厚狭と、少しずつ乗客が減っていきました。途中からは座ることもできましたので、とりあえず・・・。

幡生を出たところで、右手に下関車両センター(旧・国鉄幡生工場)が見えてきますが、そこではこの日、米子の後藤総合車両所から運ばれていた国鉄特急型気動車・キハ181系車両の解体が・・・。
私は宇部で降り、12時7分発の宇部線経由宇部新川行き1436M列車に乗ります。車両は、ワンマン化改造を済ませた105系電車2両編成。

本山支線に乗るには、小野田から小野田線で雀田へ向かうという手段もあり、この日の私の行程を考えると、実際にはそちらのほうが早く雀田に着くことができていました。
しかし、あえて宇部線経由にしたのには理由がありまして・・・。
電車はいかにも元ローカル私鉄、という感じの急カーブの多い線路を、時折車輪のきしむ音を出しながら走っていきます。
この宇部線という路線は、もともと宇部鉄道という会社が運営していた私鉄線。第二次世界大戦中の1943年5月に国有化されています。その後、貨物輸送の関係による宇部新川〜居能〜岩鼻間のルート変更などを経て、現在に至ります。

写真は、宇部〜岩鼻間の厚東川鉄橋を走っているところ。
宇部からわずか7分で、電車は居能に到着です。ここから、雀田へ向かうべく小野田線に乗り換えますが、その乗り換えの電車の発車時間は12時50分。まだまだ時間があります。
宇部駅にいたときに降っていた雨が上がり、また日が差してきましたが、やはり風が冷たいです。日なたへ出て温まろうとしますが、あまり効果なし・・・。(^^;)
結局、寒空のもと待ちつづけること36分。宇部新川のほうから小野田線経由小野田行きの1233M列車がやってきました。列車、といっても、やってきたのはクモハ123-3の1両のみ。もちろん、ワンマン運転です。
クモハ42001が引退した後の本山支線の運用に入るのは、おそらく、このクモハ123形なんでしょう。

実は、こうまでしてこのルートにこだわったのは、私自身の小野田線「完乗」がかかっていたからなんです(笑)。小野田線ではいままでに小野田〜雀田間と、本山支線をすでに乗っていましたが、この居能〜雀田間が未乗で残っていたわけで。
電車は12時59分、雀田に着きました。
向かい側のホームに、クモハ42001が待っていました。
とにかく、長門本山まで一往復、乗りましょう。

ここで、「ちょっと待った! 本山支線の列車は朝と夕方しかないんじゃないの?」という疑問の声が出るんじゃないかとも思いますが、実はこの日は、このクモハ42001の引退で多くの人が押しかけることを予想してか、昼間にも臨時電車の運転が行われていたのでした。
で、次の長門本山行きの発車は・・・13時1分! あ、もう乗らないと・・・。(^^;)
クモハ42001はまもなく、長門本山へ向けて発車しました。
ゆっくりと力行ノッチが入り、くぐもった感じの「グォ〜ン」という低いモーターの唸りが床下から響いてきます。

車内を見るとお分かりのように、お客さんもそれほど多くなく、発車直前に乗り込んだにもかかわらず余裕で席に座ることが出来ました。これは意外でした。
乗る人がいれば、当然走りを撮る人たちもいるわけで・・・。ところどころ沿線の道端などに、カメラを持った人たちが待っていました。寒い中ご苦労さんでございます。

で、この電車は臨時のため、本山支線唯一の中間駅である浜河内は通過です。
13時6分、クモハ42001は長門本山に到着です。
2.3kmの道のり、5分で走り抜けました。

先ほどまで曇っていましたが、ここにきてまた日が差してきました。
ほんと、猫の目のような天気です。
駅では、このように乗ってきた人たちなどが思い思いにクモハ42001を眺めたり、写真に撮ったりしています。
ここには駅舎はありませんが、ホーム待合所のところには臨時のきっぷ売り場が出現していまして、帰りのきっぷやオレンジカードなどの販売をしていました。
先日亡くなった紀行作家・宮脇俊三氏の代表作である「時刻表2万キロ」によれば、この長門本山を宮脇氏が「乗りつぶし」のために訪ねた1976年ごろには、「廃屋のような無人の駅舎」があったとのことですが、いまは見る影もありませんね。

で、その待合所のところに、何かチラシがおいてあるなぁと思って手にとって見ると、そこにはなんと、「クモハ引退記念フライト」、つまり、セスナ機に乗って空から同車の雄姿を眺めてしまおう(!)というツアーの募集が・・・。そこまでやっちゃうのね・・・。(^^;)
ここからは、いくつか同車の点描を・・・。

こちらは側面。車号の上には、サボ(行先表示板)が。
まだ車体は艶を保っていますね。
こちらは「さようなら」ヘッドマーク。
やはり、最後ということで、車両の両先頭部に取り付けられていました。情報としては少し前から聞いていましたが。
車内です。
ニス塗りされた木材が多く使われていますが、なんとなく最近の電車にはないぬくもりを感じてしまいます。
運転台です。
見るからに「機械だなぁ」と思うこういう運転台。新車のようなスマートなものではないですが、機能重視の無骨なスタイルが、なんかいいですよねぇ。
その昔、この長門本山駅の近くには海底炭鉱の坑口があり、本山支線は炭鉱からあがってきた石炭を搬出する使命を持っていました。
第二次大戦後、国のエネルギー政策の転換でやがて炭鉱は消え、細々とローカルの旅客輸送が続いてきました。
このクモハ42001も、そんな時期にこの本山支線へやってきて、70年の「人生」の半分以上の期間を、ここで過ごしてきたわけですね。

そんな、同車にとっては当たり前のような情景も、まもなく終焉のときを迎えます。
戻りの列車9362Mは、13時42分に長門本山を発車しました。
引き続き、乗客はそれほど多くはなく、このように余裕がありました。

時折横揺れを伴いながら、のんびりと走っていくクモハ42001。
時間が止まったかのような錯覚を覚えました。

やがて、雀田駅へ進入。スピードを思い切り落とし、駅手前の踏切を通過していきました。
クモハ42001は5分で、雀田へと戻ってきました。
いったん駅を出て、踏切を渡ったところから駅舎と電車を一緒に撮ってみました。
いよいよ、雀田を離れる時間です。
最後にもう一度、ホームから撮ってみた1枚。

走る同車に会えるのは、おそらく今回が最後でしょう。
心の中で「さらば・・・」と呟きながら、撮っていました。
クモハ42001については、部品の不足をはじめ、年々維持管理が難しくなってきている現状がありました。現場の方々も、この車両をいかに長く持たせるか、という点では、相当な苦労をしているはずです。
同車が70歳を迎えるのを機に、運用から退くというのも、仕方がない、という気もしますね・・・。

保存される予定ということなので、今後は、鉄道の歴史を後世に語り継ぐ役割を、ぜひしっかり果たしてもらいたいものです。

寒い中、しかも時折雨が降るあいにくの天気でしたが、この日は行って正解でした。
<おわり>